一番町南診療所 仙台心臓血圧総合クリニックInformation

2021/05/06
”内科・心臓・血圧を診る” 皆さまのかかりつけ医療機関であり続けるために 開院9周年の御挨拶

いつも一番町南診療所をご利用頂きありがとうございます。おかげさまで一番町南診療所は開院9周年を迎えました。これも、診療所を信頼頂いております患者さま、いっしょに一生懸命診療に取り組んで来たスタッフ、そして、連携して患者さまの診療にあたって下さる医療機関の皆さまのおかげと心より感謝申し上げます。一番町南診療所は皆さまの身近な医療機関としてこれからも皆さまの健康に寄与して参りたいと考えております。私たちの診療の特徴のひとつは、皆さまに身近な存在で、”心臓・血圧を診る”ことです。特に、胸が苦しい、ドキドキする、息切れがする、血圧が高い、などの症状は、いつ、だれにでも起こり得ます。一方、これらの症状は生命に関わる症状であることも考えられ速やかな診療を必要と致します。一番町南診療所では、定期通院中の皆さまの生活習慣病をはじめとする”内科”全般について診療し、”心臓・血圧”については主治医として皆さまのお役に立つ診療をする、 ”内科・心臓・血圧を診る” 皆さまのかかりつけ医でありたいと思っております。心臓の症状や疾患はいろいろな原因でおこります。どうぞ、心臓のことで気になることがございましたら、お気軽に私たちにご相談下さい。皆さまに身近な存在で、”内科・心臓・血圧を診る” そして、必要な時には、いっしょに地域医療に携わっております高度医療機関と分担連携して、皆さまの診療をおこなって参ります。新型コロナウイルス感染症対策と皆さまの生命と健康をおまもりすることを両立し、これからの時代に皆さまが心身共に健康にお過ごし頂けるよう努めて参ります。どうぞ御愛顧の程何卒宜しくお願い申し上げます。


2021/03/11
あれから十年経って

 医療法人社団葵会 一番町南診療所 名誉院長本田剛彦

  東日本大震災を被災してから、令和3年3月11日は満10年の節目を迎える。

 すでにひと昔前の歴史的大惨事になるが「もうそんなに経ったのか」と肯ける気持ちと、心の隅に忘れがたい傷や痛みが残っていて、まだ1~2年しか経っていない出来事のように感じることもある。

 国内の地震として過去最大になるマグニチュード9.0のとてつもない揺れの現場とその直後の巨大津波襲来時に目の当たりにした凄まじい光景は、今でもビデオの再生のように鮮明に脳裏に焼き付いている。

 その日は外来が混む金曜日で、午後2時46分までの時間帯はいつもの通りの診療が滞りなく流れていた。それからわずか1時間も経たないうちに南三陸町志津川の町並みは目の前で為すすべもなく壊滅したのである。

避難時の判断を間違っていたら、悲劇的な結果になっていたかもしれない事態だった。

この未曾有の天変地異に直接立ち会った時は、にわかには理解できず茫然自失して、まるで特撮映画のワンシーンを見ているような錯覚になったのを思い出す。

咄嗟の避難行動で何ひとつ持ち出せず、白衣の上にジャンパーを引っ掛けて、着の身着のままで退避して、雪の山道をサンダル履きで雑木林の中を歩き、避難所になった志津川小学校の体育館にたどり着いた。

 その日は現代社会のすべてのインフラが遮断されて、展望が全く見えない状況の中で、暗くて寒い体育館で冷たい床の上にごろ寝をせざるを得なかった。

避難した町民が数百人も集まり、何がなんだか訳が分からない大混乱の中で、まんじりともせずに過ごしたあの夜の経験は生涯忘れないだろう。

 「千年に一度の大災害」に遭遇して、日常の暮らしと生業の原住所および社会的、経済的な基盤があっという間にすべて消滅してしまい、後半生の生き様を変えさせられた。

 私にとってはコペルニクス的転回と言っても過言ではない。

 被災後の12カ月間の胸中は動揺、右往左往して「これからの生活をどうするのか」、「医師という職業を全うできるのか」、「家族を含めて心身の健康に悪影響はないか」などの不安、焦燥、喪失、無念、混迷、心痛が交錯していた心理を、今更ながら思い返される。

 人間は戦争、大災害、大病、大きな事故や事件などを体験すると、ものの見方や考え方、行動が変容すると言われている。

 衣食住が充足して便利なインフラの下で平穏な日々を送っていた凡人は、住み慣れた環境と日常生活の思いもよらない唐突な消失に気持ちが落ち込んだり、逆に昂ったり、人に会いたいと思えず、酒が不味く感じたり、食欲が落ちて体重が減ったりした。

一時的に抑うつ症状、心的外傷後ストレス障害に陥っていたに違いない。

幸いいろいろな方々からの支援を受けて、10年を経過した今は、100%ではないにしても、心身ともにおおむね復興していると自負している。

逆に最近は時々、もしも東日本大震災が起きていなかったら、今頃はどうしているだろうかと、空想する時がある。

3・11がなかったら、おそらく地域医療の中に没入した時空間が引き続き絶え間なく流れて、老後に備えての生き方や死に様を考えるゆとりすらなかったのではないかと思う。

 リラックスできる自分の時間を持てないままに、相変わらず“Aタイプ行動パターン”で動き回り、あっという間に春夏秋冬が過ぎて、いたずらに馬齢を重ねていただろう。

 あるいは縁起でもないが、忙しさのあまりストレスや不摂生と運動不足のるつぼの中で、BMIが30以上になったり、生活習慣病を罹患したり、がん、心筋梗塞や脳血管障害などを患って、もはや自立できない状態になり、深刻な後半生になっていたかもしれない。

今となれば「タラレバ」の笑い話になってしまうが、 鴨長明が“方丈記”に記した「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しく留まりたる例(ためし)なし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし」の一節は、東日本大震災にも通じると理解すれば、あながち無意味な想像ではない。

この10年間には3・11を境に人生観、価値観がずいぶん変わったと自認している。

震度6強の騒乱の最中にわずかな時間差で、連れ合いと従業員全員が一緒に命が助かっただけでも良かったと、達観できる心境にもなっている。

「過ぎ去ってしまったことはいくら悔やんでも、絶対に元には戻らない」、「後向きでは、周りを見回して前に進む道が開けない」と、己の気性の変換を自覚した。

さらに、まだ起きてもいない事象に余計な心配をせずに、「今日を元気で充実して生きる」心構えを持とうと決心した。

そのためには拙速でもよいから、「取り敢えず第一歩を踏み出す」、「できない理由を考えるより、やれる方法を探す」を実行している。

特に運動習慣と随筆もどきの雑文書き、“男の料理”に関しては現在進行形である。

一病息災(?)の身になったが、認知症とロコモティブ症候群の予防対策をしようと頑張れる気持ちになった。

現時点で健康寿命を延伸し続けていることは、後期高齢者にとってなによりうれしい。

劇作家井上ひさし氏が言っていた(と思う)「平凡でもルーティンが続いているのが幸せの原点」をあらためて実感して、平穏な日々が如何に有り難いかを身に沁みて感謝している。

 太平洋戦争敗戦後、国や国民の努力によって先進国の一員になり、昭和の後期から平成時代になると、私たちは「平和と物質的豊かさ」が無意識に当たり前として生活した。

東日本大震災はこの安定して、恵まれた環境が突然ひっくり返されて、有無を言わさずいきなり奈落の底に落とされたようなものだった。

しかし一方では、東日本大震災で失ったものは非常に大きかったが、得たものも決して少なくないと、納得している部分もある。

“足るを知る”を実際に体験し、実施しているからである。

その上“心身の健康”と“身辺の安全”、”家族の安寧“は幸せ度数の指標であると教えられた。

10年を経た被災者として「不幸せか」と問われれば、今は「85%以上の幸せだ」と答えられるだろう。

人間の一生において、不幸感と幸福感は結局プラスマイナス・ゼロであり、故事の「人間万事塞翁が馬」は真実だと思う。

さらに、この宇宙のどこかに人知の及ばない絶対的超越者(Something Great=神様、仏様、お天道様)がおられて、われわれの運命を定めているのではないかと、従容する感情にもなっている。

人はこの感情を信心とか宗教心というのだろうかと、半信半疑である。

大震災後、私たちが命を預けているこの惑星が内蔵している自然の力に、畏怖の気持ちを越えて、畏敬の念を持つようになった。

人類は想定外の多種多様の自然現象を容認し、不条理や理不尽な社会の変化をも覚悟しておかなければならないと思うのは、被災後の数年間の葛藤が醸成したと確信している。

そして3・11の節目を迎える今年、予想もしていなかった新型コロナウィルス感染症が世界中に蔓延しているのも、自然界の不可思議な潜在力の発露と考えざるを得ない。

残生の有効期限があと何年間あるのかは“神のみぞ知る”だが、じたばたしないで自分が出来る限りの努力をして、「天命に従って一日一日を愉快に生きよう」と思っている、あれから10年後の姿勢である。




2021/03/11
あの日、どう動いて、何を思ったか

医療法人社団葵会 一番町南診療所     名誉院長本田剛彦

 

 令和3年3月11日は、東日本大震災から丸10年間を経過した節目の日である。

 私たち夫婦の生死を左右したかもしれなかったあの日の光景と逃避行は、すでに一昔前の歴史的大惨事になってしまったのにもかかわらず、まだ1、2年前の出来事のように脳裏に鮮明に残っている。

 「もう戻らない過ぎ去ったことには、反省はするが悔やまない。今を元気で楽しく生きる」を被災後の人生訓にしているつもりだが、まだまだ無意識のうちに心の傷跡として残っているのだろう。

 3・11まで28年間在住していた南三陸町へは、今も時々足を運んでいる。

莫大な復興事業によって町全体の地形や町並みがすっかり変わっってしまった。

町内会や同世代の知り合いも少なくなり、最近は地縁がだんだん薄くなってきている。

元の志津川字五日町あたりに造成された復興祈念公園の「祈りの丘」を訪れて、全く違ってしまった風景には、疎外感と一抹の寂しさを感じたのは加齢の現症だけではあるまい。

 ただ、私自身が卒業した志津川小学校の学校医を今も仰せつかっており、年に数回の南三陸町への出張は、生業と暮らしの原住所を失った当事者の心情に、救いになっている。

仕事が終われば昔なじみの魚屋で、好みの魚類を買って帰るのは楽しみのひとつである。

時々そこで、元患者さんにばったり出会ったら、“平成23年3月11日午後2時46分”以降の境遇やその後の行動と思考について立ち話をするのは、心の和になっている。

 百人いれば百通りの生き方の中で、この「千年に一度の天変地異」によって変えさせられたそれぞれの人生観、価値観を見聞きして、共感するのである。

私は高校3年生の昭和35年5月24日に旧志津川町で、実家がチリ地震津波の直撃を受けて被災しているし、昭和53年6月12日の宮城県沖地震は仙台で直接体験した。

チリ地震津波以後、南三陸町では毎年5月下旬に必ず避難訓練を行い、「本田記念あおいクリニック」も医療班として積極的に協力していた。

平成時代に入って宮城県は「30年以内に99%の確率で宮城県沖地震が勃発するだろう」と盛んに啓蒙しており、個人的にもかなり危機感を持って準備をしていた。

しかし、近年はこれらの地震災害の歴史を知る者は少なくなり、記憶が薄れつつあった。

3・11の記録や記憶が同様に徐々に風化してゆくのではないかと、懸念している。

被災者の私も“遊行期”に入り、変容した人生の来し方を記録にして残しておかなければならないと逡巡して、機会を見つけて雑文を書いたり、時には語り部もどきの話をしている。

 あの日の時系列を振り返ってみると、当日の午前中に何をしていたかは、今となっては全然憶えていない。

ただ、2日前の3月9日にもかなり大きな地震(前震だった)があり、なんとなく気になっていたのは、記憶の片隅にある。

 地震発生時は午後の診療が順調に流れていた時間帯で、ちょうどその時は右肩痛の高齢者にブロック注射をする直前だった。

突然ガツンと突きあげる縦揺れから、たちまちガタガタガタと大きな音と激しい横揺れが始まり、つかまらないと立っておられず、思わず天井を見上げて深呼吸をした。

見渡すと壁の掛時計と額縁が落ち、診察台は移動し、薬棚や器械棚が30センチくらいの振幅で前後に揺れているのが目に入った。

2008年6月14日午前8時半頃に発生した岩手宮城内陸地震も大きかったが、今回の診察室で体感した揺れ方は規模がまるっきり違っていた。

これまでに経験した地震の揺れは、普通は長くてもせいぜい1分間くらいだったのに比べて、今回の場合は大きさも長さも一桁も二桁も違うと感じた。

大揺れは一向に収まらず、断続的に大きく、さらに激しくなって5分以上続いた。

この間は、あっちこっちで悲鳴が上がっていたので、「この建物はつぶれないから落ち着いて」と大声をかけた。

突然の訳の分からない混乱状態で、逃げ場のない恐怖感が頭の中を渦巻いて、「まだ終わらない、早く止まれ」と祈るような気持ちだった。

しかしながら矛盾するようだが、「とうとう宮城県沖地震がやってきたのだ」と確信して、妙に悟ったような気分になったのは不思議な心理だった。

揺れが一段落してからの数分間は、患者さんにすぐに帰宅するように勧め、怪我した人がいないか、出火していないか、水道管が破裂していないかと建物内を見回っていた。

院長室は床一面に本が散らばり、給食室の大型冷蔵庫は横を向いていたのが見えた。

その頃なると、町役場防災対策庁舎からは大津波警報を発令されていたが、ざわめきと動転している最中で、詳しい内容は聞き取れなかった。

従業員たちは散乱したものを片づけたり、カルテを2階に運んだりし始めていた。

私は何から手を付けたら良いのか分からず、あちこちをうろうろして、この分ではレセプトコンピュータ、X線装置や大型医療機器は海水に浸かってしまいもう使い物にならないだろうと、小市民的な無駄な心配をしていたのを憶えている。

周りの住宅からは隣組の町民が続々出てきて、一斉に避難の準備を始めていた。

取り敢えず、隣地の院長宅にいるはずの連れ合いの様子を見に行った。幸い、閉じ込められたり、家具に挟まれたりせずに無事だった。

再び、院内に戻り右往左往していたが、その間の記憶に一部空白の部分がある。

防災スピーカーは「直ちに避難せよ」と絶え間なく放送しており、間もなく津波が必ず来ると覚悟して、従業員にもはや退避すると指示した。

ところがみんなは今までの避難訓練通り、医院の屋上に上って準備をしていた。

その時に持ち出したトランジスタ-ラジオで「6m以上の大津波」と偶然にも聞こえたので、屋上では駄目だと咄嗟に判断した。

直ちに呼び戻して、総勢10人で400mほど内陸にある上の山公園(海抜16m)に向かった。地震発生からすでに30分くらい経っていたと思う。

後日、医院の立地場所(防潮堤から200m、海抜80cm)での津波の高さは、20m位にはなっていたらしいと教えられた。

もしもそのまま屋上に留まっていたら、間違いなく悲劇的な結果になっていただろう。

切羽詰まった大混乱の中で、方向転換をよく決断したと、のちのち多くの方から言われたが、これは自分の思慮、力量から発出したのではないと断言できる。

まさにお天道様(神様仏様あるいはSomething  Great)に導いて頂いた運命だったのではないかと、信じざるを得ない。

途中で横断した国道45号線は車列が大渋滞しており、多分この人たちの中からも多くの犠牲者が出たのではないかと推測される。

やっと高台に到着した時には、防災対策庁舎に留まっていた女性職員が「10m以上の巨大津波が来るので、一刻も早く避難を」と叫んでいた。

放送を続けていた担当者の故・遠藤未希さんの声が今でも耳の奥に残っている。

そのまま海側を見ていたら防波堤の水位がみるみる下がり、ものの5、6分後には波頭を立てて、黒い壁のような巨大津波が押し寄せ来るのを目の前で見ていた。

この第一波の襲来は3時30分を過ぎた時刻と記録されているので、われわれもあと10分退避が遅れていたら、海の中に引きずり込まれていたのは確実だったろう。 

津波が陸地に到達すると、家並みがどんどん壊されて、家屋からは茶色い土煙が舞い上がり、傾きながら次々と押し流されていた。

この巨大津波の破壊力は、時速30~40Kmで走行する10tトラックが家屋にぶつかった時と同じ衝撃と推定されているそうだ。

波しぶきとその音とともに、あたり一面に充満した磯独特の臭いの臨場感は、後々テレビで見た映像では感知できないものであった。

電信柱がゆっくり倒れてゆく場面はビデオのスローモーション画像そのものだった。

その後、この高台でさえも50cmの浸水が始まり、さらに山奥へと逃げ込んだ。

散り散りになって逃げて従業員たちとはぐれてしまい、今までお参りしたことがなかった上の山八幡神社にたどり着いた時は連れ合いと若い女性の3人だけになっていた。

そこから見えた景色は、神社に上がる鳥居の階段まで海水が押し寄せて、民家が密集していた辺りは、一面に真っ黒い湖のようになって満たされていた。

第二,三波の押し波と引き波によって、あらゆる浮遊物が行ったり来たりして漂っていた。

つい1時間前まで平穏な生活をしていたとはにわかに信じられず、まるで映画の特殊撮影を見ているような錯覚だった。

どこに行くべきか、どうすれば良いのか全く見当がつかず、しばらく参拝所の縁側に座って思案していたら、こともあろうに4時半頃から雪が降り出した。

辺りは林に囲まれた地形で、次第に薄暗くなり始めたので途方に暮れてしまった。

しかし幸いなことに、避難所に行くつもりの知人がたまたま通りがかり、同道した。

これは八幡神社の神様のありがたい思し召しだったのかもしれない。

サンダル履きで雪が積もっている雑木林の藪をかき分けて、道なき道を滑りながら20分くらい歩いて、やっと避難所に指定された志津川小学校の体育館にたどり着き、そこで従業員全員と再び合流し、無事を喜んだ。

かねてから想定されていた宮城県沖地震と津波に備えて、2~3週間分の水や非常食(インスタントラーメン、缶詰、レトルト食品など)、救命胴衣、ガソリン発電機、ガソリン40リットルまでを備蓄していたにもかかわらず、国内で過去最大のマグニチュード9.0の大地震とその後の巨大津波には、すべての心構え、用意が全く役に立たなかった。

それどころかなにひとつ持ち出せず、白衣の上にジャンパーを引っ掛けて逃げてきた。

その夜はひっきりなしに続く余震の中の寒い暗闇の避難所で、サンダルを枕にしてタオルケット1枚をかけて、着の身着のまま冷たい床にごろ寝をした。

当たり前の衣食住や必需の諸々のインフラが唐突に失われて、眠られるどころでなく、「何もかも無くなってしまったか」、「明日からどうなるのだろう」、「みんな心配しているだろうな」などの不安や混迷が頭の中を去来していた。

真夜中に数人の顔見知りから体調が悪いと相談されたが、こんな時は医者といえども打つ手がなく、「徒手空拳」の無力さを実感した。

避難所の志津川小学校体育館には42時間留まっていた。

情報が入らない、連絡が取れない、食べ物や水がない、何をするべきか分からない、行く当てがない、プライバシーの100%欠如などには無力感、不安危惧感、喪失感、焦燥感、無念さが募るばかりだった。

自分ではどうにも出来ない絶望感、虚無感の漂う時空間の経過は、まるで檻のない座敷牢に居るようだった。

医師になってから、これほどの屈辱感と屈服感を味わったことはない。

この場所から脱出する方法や手段の見当がつかず、次第に拘禁症状を感じていた。

幸いにも被災しなかった従業員の手助けによって13日午後3時過ぎに、やっと仙台にたどり着いた時に初めて安堵した心境は、地獄の淵を見た者のみにしか分かるまい。

一瞬にして生活、生業の原点と社会的、経済的基盤のすべてを失ったけれど、連れ合いと一緒に命が助かっただけでも良かったと、心底から諦観することができたことは、新しい後半生の始まりでもあった。


2021/03/11
東日本大震災から10年が経ち

東日本大震災から10年。被災された方々から全てを奪い、生涯、忘れられない大震災。二度と返らぬ震災前の生活、人生。

生き残った方々、震災について言葉にする事、記憶を思い返す事、辛く悲しい過去と対峙する事、 今を生きてゆく事、全てが大変な勇気であります。 心からその存在に敬意を表します。

あの日、私の両親、義両親、スタッフ、そして多くの患者さまも大津波に遭い、被災しそれまでの生活の全てを失いました。 つらく悲しい体験を言葉にする事は大変な勇気が要ります。記憶を思い返したくない方もいらっしゃるかと思います。 大津波を経験して生き残った者しか伝える事が出来ない思いもあるかと思います。 「あの日 どう動いて どう思ったか」「あれから10年経って」10年目の名誉院長の言葉ご一読頂けましたなら幸いです。

震災に遭われた皆様、この10年間の困難、悲しみ、心より御見舞申し上げます。そして、これまでの歩みに心より敬意を申し上げます。

震災では大変多くの方がお亡くなりになられました。 御冥福を心よりお祈り申し上げます。 どうか安らかにおやすみ下さい。

2021.3.11 医療法人社団葵会 一番町南診療所 本田 英彦


2021/01/29
震災から10年 当院名誉院長の南三陸町志津川小学校での学校医活動の歩み

震災からまもなく10年を迎えます。当院名誉院長は東日本大震災で診療所が大津波にのまれ壊滅されるまで、先代から半世紀以上に渡って南三陸町の地域医療を担っておりました。震災にて大津波にのまれ現地再建は困難にて、70歳を前にして新天地で新たな歩みを始めました。それからまもなく10年。震災当時1~2歳であった志津川小学校の6年生もまもなく小学校を巣立ちます。名誉院長は南三陸町志津川小学校の学校医として震災前から何十年も同町で生まれ育った子供たちが健やかに育つことを願いその成長を見守り続けておりました。震災から10年が経つ今でも名誉院長のその気持ちは変わらず、震災後のこの10年間も、大雪の日も交通状況も悪い日も、子供たちの成長を願って仙台から通い続け学校医活動を続けております。先日の河北新報にて震災前から変わらぬ志津川小学校での学校医活動を御紹介頂きました。震災を乗り越えどうか健やかに育ち未来に羽ばたいて下さい。
河北新報社記事のリンクはこちらです。
https://kahoku.news/articles/20210125khn000016.html


2020/11/30
コロナ禍の診療 北部急患診療所 仙台市急患センター夜間休日診療当番について

一番町南診療所では、院長、名誉院長がそれぞれ仙台市急患センター、北部急患診療所の夜間休日救急診療当番に協力しております。先週末は、78歳の名誉院長が北部急患診療所の休日診療を担当致しました。院長も今週の仙台市急患センター夜間診療を担当致します。名誉院長におかれましては78歳の高齢にも関わらず、コロナ禍で医療体制が逼迫している救急医療の現場で、市民の生命と健康をおまもりする使命感で診療しております。78歳高齢という年齢は診療の現場で新型コロナウイルス感染症にり患すれば重症化、生命に関わることが心配される年齢です。院長においても、診療において、自院や仙台市急患センター等で新型コロナウイルス感染症が疑われる方を診察した時は帰宅せず家族と隔離し感染予防に最大限努め日々診療致しております。地域の救急医療体制は、医療従事者やその家族らの献身的努力や犠牲の上に、それに参画する、医療機関、医療者、利用者の皆様の善意の輪で成り立っております。コロナ禍、感染予防に努め最大限の緊張状態での当院での診療や週末夜間の救急診療を継続するには、やや限界に近い、市民の皆さまの生命と健康をまもる医療活動となってきた感染状況です。これまで、一番町南診療所は、善意の輪が成り立つ限りは夜間休日救急診療を支えて参りました。しかし、医療現場の最前線で診療にあたる方の緊張感とストレスはそろそろ限界に近づいてきたのではないでしょうか。いつまで、善意の輪に寄り掛り、医療崩壊せず医療従事者が燃え尽きず医療体制を維持できるのか?私自身、皆さまの命と健康をまもるための使命感で診療に取り組むにあたっても、最近は、自分自身がいつ感染してもおかしくないという不安と緊張感の重圧と共に日々診療を致しております。どうか、一日も早くコロナ禍が収束し、平和な日常生活を送れるようになりますことを心より願っております。どうぞ、皆様におかれましても健康にこの冬をお過ごし下さい。


2020/05/07
新しい時代 ”内科・心臓・血圧を診る” 皆さまのかかりつけ医療機関として努めて参ります

いつも一番町南診療所をご利用頂きありがとうございます。
おかげさまで一番町南診療所は開院8周年を迎えました。これも、診療所を御信頼なさって下さる患者さま、診療にいっしょに一生懸命取り組んで来たスタッフ、そして、連携して患者さまの診療にあたって下さる医療機関の皆さまのおかげと心より感謝申し上げます。一番町南診療所は皆さまの身近な外来医療機関としてこれからも皆さまの健康に寄与して参りたいと考えております。私たちの診療の特徴のひとつは、皆さまに身近な存在で、”心臓・血圧を診る”ことです。特に、胸が苦しい、ドキドキする、息切れがする、血圧が高い、などの症状は、いつ、だれにでも起こり得ます。一方、これらの症状は生命に関わる症状であることも考えられ速やかな診療を必要と致します。一番町南診療所では、定期的に通院中の皆さまの “内科” 全般を診、肝心の”心臓・血圧”についても主治医として常に目配りをして、皆さまのお役に立つ診療をする、 ”内科・心臓・血圧を診る” 皆さまのかかりつけ医でありたいと思っております。心臓の症状や疾患はいろいろな原因でおこります。どうぞ、心臓のことで気になることがございましたら、お気軽に私たちにご相談下さい。皆さまに身近な存在で、”内科・心臓・血圧を診る” そして、必要な時には、いっしょに地域医療に携わっております高度医療機関と分担連携して、皆さまの診療をおこなって参ります。新型コロナウイルス感染予防と皆さまの生命と健康をおまもりすることを両立し、これからの時代に皆さまが心身共に健康にお過ごし頂けますようこれからも努めて参ります。どうぞ御指導御鞭撻の程何卒宜しくお願い申し上げます。


2020/03/11
東日本大震災から9年目の3月11日を迎えて

新型コロナウイルス感染症が流行して2か月、東日本大震災から9年目の3月11日を迎えます。毎日の新型コロナウイルス感染症の流行状況に心配をなさっている患者さまも多くいらっしゃるかと思います。皆様の健康をお手伝いさせて頂く私たちも、最大限の緊張感を持って新型コロナウイルス感染症対策にこの1か月以上努めて参りました。当院では80歳以上の高齢者、心不全や呼吸不全、重篤な心疾患、高血圧や糖尿病といったいわゆる新型コロナウイルス感染症にり患すると危険なハイリスクの患者さんが数多く通院しております。これからも、スタッフ一同力をあわせて一生懸命診療に努めて、私たちを信頼して通院して下さるかかりつけの皆様の健康を支えて参りたいと考えております。かつて私たちが経験した東日本大震災や津波の時と同じく、新型コロナウイルス感染症という目に見えない新たな災いへ全力で取り組んで参ります。震災を経験し、様々な困難や心の痛みを乗り越え、歩みを続けて参りました9年目です。大津波に巻き込まれ、目の前で自宅や診療所が大津波に飲み込まれ、奇跡的に九死に一生を得た者もおります私たちにとりましても、生涯忘れることのできない出来事です。また、3月11日を迎えました。震災で傷ついた心が癒えることは難しくありますが、被災されたお一人お一人が、平和で穏やかな日々を送られることができるようお祈り申し上げます。震災では多くの尊い命が失われました。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。


2019/11/26
北部急患診療所 仙台市急患センター夜間休日診療当番について

一番町南診療所では、院長、名誉院長がそれぞれ仙台市急患センター、北部急患診療所の夜間休日救急診療当番に協力しております。週末は、77歳の名誉院長が北部急患診療所の休日診療を担当致しました。院長も年始の仙台市急患センター夜間診療を担当致します。名誉院長におかれましては77歳の高齢にも関わらず、昨今の救急診療担当医師不足の現場で、元気に頑張って診療しております。地域の救急医療体制は、それに参画する、医療機関、医療者、利用者の皆様の善意の輪で成り立っております。当院での診療に加えて、週末や夜間の救急診療を担当することは相当の負担であります。それでも、一番町南診療所は、善意の輪が成り立つ限りはこれまで同様に夜間休日救急診療を支えて参ります。診療の現場では風邪が流行り、今年もインフルエンザ予防に努めたい季節となりました。どうぞ、皆様におかれましても健康にこの冬をお過ごし下さい。


2019/05/22
心臓 血圧 のことで気になることがございましたらお気軽に私たちにご相談下さい。

いつも一番町南診療所 仙台心臓血圧総合クリニックをご利用頂きありがとうございます。おかげさまで、一番町南診療所 は開院7周年を迎えました。これも、診療所を御信頼なさっていらっしゃる患者さま、診療をいっしょに一生懸命おこなって下さるスタッフの皆さま、そして、連携して患者さまの診療にあたって下さる医療機関の皆さまのおかげと心より感謝申し上げます。一番町南診療所は皆さまの身近な外来医療機関としてこれからも成長発展して参りたいと考えております。私たちの診療の特徴のひとつは、皆さまに身近な存在で、”心臓・血圧を診る”ことです。私は、東北大学医学部を卒業以来、仙台市立病院 内科・救命救急センター、仙台厚生病院心臓血管センター循環器内科、JR仙台病院循環器内科、そして、一番町南診療所と、およそ四半世紀、仙台、宮城県にお住まいの皆さまの ”内科・心臓・血圧を診る” ことに、多くの医療従事者の皆さまといっしょに力をあわせて続けて参りました。高血圧、糖尿病、脂質異常症、肥満、運動不足やストレスといった要素からなる生活習慣病を長年患っておりますと、血圧が高くなる、胸が苦しい、ドキドキする、息切れがする、といった症状を呈し、狭心症や心筋梗塞、不整脈や心不全といった経過をたどる場合があります。人生100年時代と言われる昨今、健康で長生きして頂くためには、ふだんからかかりつけ医として”内科”全般を診ることにはじまって、肝心の”心臓・血圧”についても主治医として常に目配りをして、皆さまのお役に立つ診療をする、 ”内科・心臓・血圧を診る” 皆さまのかかりつけ医でありたいと思っております。心臓の症状や疾患はいろいろな原因でおこります。また、胸が苦しい、ドキドキする、息切れがする、などの症状は、いつ、だれにでも起こり得ます。どうぞ、心臓のことで気になることがございましたら、お気軽に私たちにご相談下さい。皆さまに身近な存在で、”内科・心臓・血圧を診る” そして、必要な時には、いっしょに地域医療に携わっております高度医療機関と分担連携して、皆さまの診療をおこなって参ります。