一番町南診療所 仙台心臓血圧総合クリニックInformation

2021/11/22
インフルエンザ予防接種承ります ご予約不要ですのでご都合の良い受付時間内にどうぞお気軽にご利用下さい

今年度もインフルエンザ予防接種を承ります。かかりつけの方、新型コロナワクチンで当院ご利用された方、当院を初めてご利用になる方、いずれも予約不要、接種希望診療日当院下記受付時間内に申込みご利用下さい。(月、火、木、金 8時-12時半、14時‐16時半迄)、(水8時-11時迄、土8時半‐11時迄)当院は仙台市高齢者インフルエンザ予防接種登録医療機関です。3歳~65歳未満の一般利用、65歳以上の仙台市の高齢者インフルエンザ予防接種対象者、13歳未満の2回接種希望の方、いずれの方もご利用頂けます。今年はインフルエンザワクチン供給が昨年より少なくなる旨報道されております。また、日本感染症学会より、今シーズンはインフルエンザ流行の懸念との報告もあり希望問合せを多く承っております。希望される方はご都合の良い機会にご利用下さい。企業団体予約も承ります。ご希望の企業団体様は当院受付窓口まで御問合せ下さい。どうぞよろしくお願いいたします。


2021/11/22
医療事務正社員募集の御案内 中長期人材育成と診療体制の更なる拡充をめざします

いつも一番町南診療所 仙台心臓血圧総合クリニックをご利用頂きありがとうございます。当院では、この秋、新スタッフも私たちの仲間に加わり、総勢17名(非常勤含)で皆様のお手伝いを致しております。スタッフ一同、このコロナ禍の医療環境、精一杯皆さまのご要望ご利用にお応えし、頑張ってゆく所存でございます。今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。おかげさまで当院では多くの皆さまにご利用頂いており、今後、更なるご期待にお応えし、中長期に渡って当院診療体制拡充とスタッフの人材育成を目的に、更にスタッフを増員、常勤医療事務正社員1名を追加募集致します。やりがいのある診療を通じて、素晴らしい医療従事者になりますことを夢見て私たちと一緒に皆さまの診療にあたりませんか。当院は主に心臓血圧疾患の外来管理を主とする医療機関であり現時点では検査診療医療機関として、発熱外来やPCR検査を担当する業務は当職ではございません。当職では一般医療事務、診療所業務を担当して頂きます。診療所全体で徹底した感染予防を継続致しており、業務による感染のリスクについては心配することなく安心して就労頂けます。ご希望の方は、どうぞ一番町南診療所窓口までお問い合わせ頂けましたら幸いです。勤務条件、待遇は良いかと思います。患者さまの健康作りのお手伝いをして頂ける優しい方のご応募をお待ちいたしております。


2021/11/12
新型コロナワクチン接種12月分予約受付:新患12歳以上仙台市クーポンワクチン接種対象者の新型コロナワクチン、ワクチン後胸痛症状対応承ります

いつも当院をご利用頂きありがとうございます。12月からの新型コロナワクチン個別接種再開に伴い12月3日(金)16時、4日(土)11時半、6日(月)16時、17日(金)16時、18日(土)11時半、20日(月)16時、24日(金)16時、25日(土)11時半の日時で12歳以上のお子さん、希望者の皆様の新型コロナワクチン接種ご対応致します。2回目は丁度3週間後の同日時で接種を受けて頂きます。接種を希望される対象者の方は、お早めに診療所窓口まで接種予約に直接来院下さい。御電話での予約はお受け致しておりません。窓口で直接来院されお申込みのみ予約承ります(家族代理可)。接種希望される方もしくは代理のご家族の方は、本人確認可能な保険証(コピー可)、仙台市対象者クーポンをご準備の上、直接窓口まで来院しお申込み御相談下さい。御電話でのお問い合わせ申込みは診療の妨げとなりますのでくれぐれもお控え頂けますよう御協力下さい。当院では、12歳以上の全世代の仙台市ワクチン接種対象者へのワクチン接種に対応致しております。現在、国、厚生労働省では、12歳以上の小児を含む対象者へのワクチン接種は発症を予防する高い効果を確認致しております。また、無症候性の感染を防ぐことも明らかになっており12歳以上の健康な子どもへのワクチン接種は意義があると日本小児科学会では表明致しております。当院では、国、厚生労働省並びに日本小児科学会の判断、考え方を支持し、接種を希望される方にワクチン接種でお応えして参りたいと考えております。また、若年者においてはごく稀に胸痛、息切れ、心筋炎等の報告がございますので、接種後の胸痛や心筋炎等ご心配な方の外来経過観察も接種と並行して承りますワクチン接種後胸部症状時はお気軽に外来受診をご利用下さい。ワクチン接種をご希望の対象者の方はワクチン供給数が制限されておりますので、どうぞ、御早目に接種予約お申込み下さい。


2021/09/19
重要:新型コロナワクチン個別接種で来院される方へ

1.時間厳守でお願い致します。接種券(クーポン券)・予診票は必ず事前に記入し持参下さい。
2.原則予約変更はお受けできませんが、体調不良等ございましたら、出来るだけ早めにご連絡 下さい。予めご連絡頂きました体調不良による予約変更については体調回復後ご予約を承ります。
3.ご連絡なく予約時間に来院されなかった場合は、当院での予約・接種は一旦取り消しとさせて頂きます。
4.当日ご持参いただくもの
 接種券(クーポン券)・予診票(必ず事前に記入のこと)・当院の予約説明書・保険証
 ※体温は当日朝の体温を測定し予診票に必ず予めご記入の上、来院ください。
 ※クーポン券をお忘れの場合、接種は受けられません
5.当日はすぐに肩を出しやすい服装(半袖着用等)で来院下さい。
6.ワクチン接種時間帯は、大勢の接種者が同時間帯ご利用されますので、接種と同時間帯に定期診察や投薬はお受けできません。定期診察や投薬を必要とする方は、予め別途受診をご予定下さい。


2021/05/30
重要:土曜日診療受付時間は新患10時、再来11時までとなります。

いつも一番町南診療所をご利用頂きありがとうございます。
土曜日の診療時間、受付時間を変更致します。6月5日土曜日~、土曜日受付診療時間は受付午前8時半~午前11時(新患受付は午前10時)まで、診療時間は午前9時~11時半までとなります。皆さまが一日でも早くワクチン接種できますよう、当院では、土日も返上し出来るだけ皆さまがワクチン接種をご利用頂けますようお手伝いをしております。そのための土曜日診療時間変更です。診療やワクチン接種に支障がでないよう皆さまの御理解御協力をお願い申し上げます。どうぞ宜しくお願い致します。


2021/05/06
”内科・心臓・血圧を診る” 皆さまのかかりつけ医療機関であり続けるために 開院9周年の御挨拶

いつも一番町南診療所をご利用頂きありがとうございます。おかげさまで一番町南診療所は開院9周年を迎えました。これも、診療所を信頼頂いております患者さま、いっしょに一生懸命診療に取り組んで来たスタッフ、そして、連携して患者さまの診療にあたって下さる医療機関の皆さまのおかげと心より感謝申し上げます。一番町南診療所は皆さまの身近な医療機関としてこれからも皆さまの健康に寄与して参りたいと考えております。私たちの診療の特徴のひとつは、皆さまに身近な存在で、”心臓・血圧を診る”ことです。特に、胸が苦しい、ドキドキする、息切れがする、血圧が高い、などの症状は、いつ、だれにでも起こり得ます。一方、これらの症状は生命に関わる症状であることも考えられ速やかな診療を必要と致します。一番町南診療所では、定期通院中の皆さまの生活習慣病をはじめとする”内科”全般について診療し、”心臓・血圧”については主治医として皆さまのお役に立つ診療をする、 ”内科・心臓・血圧を診る” 皆さまのかかりつけ医でありたいと思っております。心臓の症状や疾患はいろいろな原因でおこります。どうぞ、心臓のことで気になることがございましたら、お気軽に私たちにご相談下さい。皆さまに身近な存在で、”内科・心臓・血圧を診る” そして、必要な時には、いっしょに地域医療に携わっております高度医療機関と分担連携して、皆さまの診療をおこなって参ります。新型コロナウイルス感染症対策と皆さまの生命と健康をおまもりすることを両立し、これからの時代に皆さまが心身共に健康にお過ごし頂けるよう努めて参ります。どうぞ御愛顧の程何卒宜しくお願い申し上げます。


2021/06/01
仙台市特定健診 はじまります。受付時間他ご案内を確認の上ご利用下さい

いつも一番町南診療所をご利用頂きありがとうございます。一番町南診療所は 仙台市基礎健診・特定健診等登録医療機関です。今年は6月~9月、1月の間、40歳~74歳の仙台市国民健康保険加入者を対象に、高血圧、脂質異常症、糖尿病、高尿酸血症などの生活習慣病の予防を目的とした「特定健診」を承ります。平日 午前8時~11時、午後14時~16時(水曜午後除く)、土曜日9時~10時まで受付、予約なしで受診可能です。一般診療、ワクチン接種事業、健診事業と並行しながら特定健診を行います。受付時間内厳守、1時間前後の所要時間、一定の待ち時間に予め御理解御協力の上、ご利用頂きたくお願い申し上げます。コロナ禍、当院が担当致しております診療において、皆様が健康でありますようスタッフ一同精一杯努めております。健診の概要については仙台市HPもご参考になさって下さい。どうぞ、お気軽にご利用下さい。よろしくお願いいたします。
http://www.city.sendai.jp/hokennenkin-kanri/kurashi/kenkotofukushi/kenkoiryo/kenshin/kisokenshin/kenko.html


2021/03/11
あれから十年経って

 医療法人社団葵会 一番町南診療所 名誉院長本田剛彦

  東日本大震災を被災してから、令和3年3月11日は満10年の節目を迎える。

 すでにひと昔前の歴史的大惨事になるが「もうそんなに経ったのか」と肯ける気持ちと、心の隅に忘れがたい傷や痛みが残っていて、まだ1~2年しか経っていない出来事のように感じることもある。

 国内の地震として過去最大になるマグニチュード9.0のとてつもない揺れの現場とその直後の巨大津波襲来時に目の当たりにした凄まじい光景は、今でもビデオの再生のように鮮明に脳裏に焼き付いている。

 その日は外来が混む金曜日で、午後2時46分までの時間帯はいつもの通りの診療が滞りなく流れていた。それからわずか1時間も経たないうちに南三陸町志津川の町並みは目の前で為すすべもなく壊滅したのである。

避難時の判断を間違っていたら、悲劇的な結果になっていたかもしれない事態だった。

この未曾有の天変地異に直接立ち会った時は、にわかには理解できず茫然自失して、まるで特撮映画のワンシーンを見ているような錯覚になったのを思い出す。

咄嗟の避難行動で何ひとつ持ち出せず、白衣の上にジャンパーを引っ掛けて、着の身着のままで退避して、雪の山道をサンダル履きで雑木林の中を歩き、避難所になった志津川小学校の体育館にたどり着いた。

 その日は現代社会のすべてのインフラが遮断されて、展望が全く見えない状況の中で、暗くて寒い体育館で冷たい床の上にごろ寝をせざるを得なかった。

避難した町民が数百人も集まり、何がなんだか訳が分からない大混乱の中で、まんじりともせずに過ごしたあの夜の経験は生涯忘れないだろう。

 「千年に一度の大災害」に遭遇して、日常の暮らしと生業の原住所および社会的、経済的な基盤があっという間にすべて消滅してしまい、後半生の生き様を変えさせられた。

 私にとってはコペルニクス的転回と言っても過言ではない。

 被災後の12カ月間の胸中は動揺、右往左往して「これからの生活をどうするのか」、「医師という職業を全うできるのか」、「家族を含めて心身の健康に悪影響はないか」などの不安、焦燥、喪失、無念、混迷、心痛が交錯していた心理を、今更ながら思い返される。

 人間は戦争、大災害、大病、大きな事故や事件などを体験すると、ものの見方や考え方、行動が変容すると言われている。

 衣食住が充足して便利なインフラの下で平穏な日々を送っていた凡人は、住み慣れた環境と日常生活の思いもよらない唐突な消失に気持ちが落ち込んだり、逆に昂ったり、人に会いたいと思えず、酒が不味く感じたり、食欲が落ちて体重が減ったりした。

一時的に抑うつ症状、心的外傷後ストレス障害に陥っていたに違いない。

幸いいろいろな方々からの支援を受けて、10年を経過した今は、100%ではないにしても、心身ともにおおむね復興していると自負している。

逆に最近は時々、もしも東日本大震災が起きていなかったら、今頃はどうしているだろうかと、空想する時がある。

3・11がなかったら、おそらく地域医療の中に没入した時空間が引き続き絶え間なく流れて、老後に備えての生き方や死に様を考えるゆとりすらなかったのではないかと思う。

 リラックスできる自分の時間を持てないままに、相変わらず“Aタイプ行動パターン”で動き回り、あっという間に春夏秋冬が過ぎて、いたずらに馬齢を重ねていただろう。

 あるいは縁起でもないが、忙しさのあまりストレスや不摂生と運動不足のるつぼの中で、BMIが30以上になったり、生活習慣病を罹患したり、がん、心筋梗塞や脳血管障害などを患って、もはや自立できない状態になり、深刻な後半生になっていたかもしれない。

今となれば「タラレバ」の笑い話になってしまうが、 鴨長明が“方丈記”に記した「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しく留まりたる例(ためし)なし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし」の一節は、東日本大震災にも通じると理解すれば、あながち無意味な想像ではない。

この10年間には3・11を境に人生観、価値観がずいぶん変わったと自認している。

震度6強の騒乱の最中にわずかな時間差で、連れ合いと従業員全員が一緒に命が助かっただけでも良かったと、達観できる心境にもなっている。

「過ぎ去ってしまったことはいくら悔やんでも、絶対に元には戻らない」、「後向きでは、周りを見回して前に進む道が開けない」と、己の気性の変換を自覚した。

さらに、まだ起きてもいない事象に余計な心配をせずに、「今日を元気で充実して生きる」心構えを持とうと決心した。

そのためには拙速でもよいから、「取り敢えず第一歩を踏み出す」、「できない理由を考えるより、やれる方法を探す」を実行している。

特に運動習慣と随筆もどきの雑文書き、“男の料理”に関しては現在進行形である。

一病息災(?)の身になったが、認知症とロコモティブ症候群の予防対策をしようと頑張れる気持ちになった。

現時点で健康寿命を延伸し続けていることは、後期高齢者にとってなによりうれしい。

劇作家井上ひさし氏が言っていた(と思う)「平凡でもルーティンが続いているのが幸せの原点」をあらためて実感して、平穏な日々が如何に有り難いかを身に沁みて感謝している。

 太平洋戦争敗戦後、国や国民の努力によって先進国の一員になり、昭和の後期から平成時代になると、私たちは「平和と物質的豊かさ」が無意識に当たり前として生活した。

東日本大震災はこの安定して、恵まれた環境が突然ひっくり返されて、有無を言わさずいきなり奈落の底に落とされたようなものだった。

しかし一方では、東日本大震災で失ったものは非常に大きかったが、得たものも決して少なくないと、納得している部分もある。

“足るを知る”を実際に体験し、実施しているからである。

その上“心身の健康”と“身辺の安全”、”家族の安寧“は幸せ度数の指標であると教えられた。

10年を経た被災者として「不幸せか」と問われれば、今は「85%以上の幸せだ」と答えられるだろう。

人間の一生において、不幸感と幸福感は結局プラスマイナス・ゼロであり、故事の「人間万事塞翁が馬」は真実だと思う。

さらに、この宇宙のどこかに人知の及ばない絶対的超越者(Something Great=神様、仏様、お天道様)がおられて、われわれの運命を定めているのではないかと、従容する感情にもなっている。

人はこの感情を信心とか宗教心というのだろうかと、半信半疑である。

大震災後、私たちが命を預けているこの惑星が内蔵している自然の力に、畏怖の気持ちを越えて、畏敬の念を持つようになった。

人類は想定外の多種多様の自然現象を容認し、不条理や理不尽な社会の変化をも覚悟しておかなければならないと思うのは、被災後の数年間の葛藤が醸成したと確信している。

そして3・11の節目を迎える今年、予想もしていなかった新型コロナウィルス感染症が世界中に蔓延しているのも、自然界の不可思議な潜在力の発露と考えざるを得ない。

残生の有効期限があと何年間あるのかは“神のみぞ知る”だが、じたばたしないで自分が出来る限りの努力をして、「天命に従って一日一日を愉快に生きよう」と思っている、あれから10年後の姿勢である。




2021/03/11
あの日、どう動いて、何を思ったか

医療法人社団葵会 一番町南診療所     名誉院長本田剛彦

 

 令和3年3月11日は、東日本大震災から丸10年間を経過した節目の日である。

 私たち夫婦の生死を左右したかもしれなかったあの日の光景と逃避行は、すでに一昔前の歴史的大惨事になってしまったのにもかかわらず、まだ1、2年前の出来事のように脳裏に鮮明に残っている。

 「もう戻らない過ぎ去ったことには、反省はするが悔やまない。今を元気で楽しく生きる」を被災後の人生訓にしているつもりだが、まだまだ無意識のうちに心の傷跡として残っているのだろう。

 3・11まで28年間在住していた南三陸町へは、今も時々足を運んでいる。

莫大な復興事業によって町全体の地形や町並みがすっかり変わっってしまった。

町内会や同世代の知り合いも少なくなり、最近は地縁がだんだん薄くなってきている。

元の志津川字五日町あたりに造成された復興祈念公園の「祈りの丘」を訪れて、全く違ってしまった風景には、疎外感と一抹の寂しさを感じたのは加齢の現症だけではあるまい。

 ただ、私自身が卒業した志津川小学校の学校医を今も仰せつかっており、年に数回の南三陸町への出張は、生業と暮らしの原住所を失った当事者の心情に、救いになっている。

仕事が終われば昔なじみの魚屋で、好みの魚類を買って帰るのは楽しみのひとつである。

時々そこで、元患者さんにばったり出会ったら、“平成23年3月11日午後2時46分”以降の境遇やその後の行動と思考について立ち話をするのは、心の和になっている。

 百人いれば百通りの生き方の中で、この「千年に一度の天変地異」によって変えさせられたそれぞれの人生観、価値観を見聞きして、共感するのである。

私は高校3年生の昭和35年5月24日に旧志津川町で、実家がチリ地震津波の直撃を受けて被災しているし、昭和53年6月12日の宮城県沖地震は仙台で直接体験した。

チリ地震津波以後、南三陸町では毎年5月下旬に必ず避難訓練を行い、「本田記念あおいクリニック」も医療班として積極的に協力していた。

平成時代に入って宮城県は「30年以内に99%の確率で宮城県沖地震が勃発するだろう」と盛んに啓蒙しており、個人的にもかなり危機感を持って準備をしていた。

しかし、近年はこれらの地震災害の歴史を知る者は少なくなり、記憶が薄れつつあった。

3・11の記録や記憶が同様に徐々に風化してゆくのではないかと、懸念している。

被災者の私も“遊行期”に入り、変容した人生の来し方を記録にして残しておかなければならないと逡巡して、機会を見つけて雑文を書いたり、時には語り部もどきの話をしている。

 あの日の時系列を振り返ってみると、当日の午前中に何をしていたかは、今となっては全然憶えていない。

ただ、2日前の3月9日にもかなり大きな地震(前震だった)があり、なんとなく気になっていたのは、記憶の片隅にある。

 地震発生時は午後の診療が順調に流れていた時間帯で、ちょうどその時は右肩痛の高齢者にブロック注射をする直前だった。

突然ガツンと突きあげる縦揺れから、たちまちガタガタガタと大きな音と激しい横揺れが始まり、つかまらないと立っておられず、思わず天井を見上げて深呼吸をした。

見渡すと壁の掛時計と額縁が落ち、診察台は移動し、薬棚や器械棚が30センチくらいの振幅で前後に揺れているのが目に入った。

2008年6月14日午前8時半頃に発生した岩手宮城内陸地震も大きかったが、今回の診察室で体感した揺れ方は規模がまるっきり違っていた。

これまでに経験した地震の揺れは、普通は長くてもせいぜい1分間くらいだったのに比べて、今回の場合は大きさも長さも一桁も二桁も違うと感じた。

大揺れは一向に収まらず、断続的に大きく、さらに激しくなって5分以上続いた。

この間は、あっちこっちで悲鳴が上がっていたので、「この建物はつぶれないから落ち着いて」と大声をかけた。

突然の訳の分からない混乱状態で、逃げ場のない恐怖感が頭の中を渦巻いて、「まだ終わらない、早く止まれ」と祈るような気持ちだった。

しかしながら矛盾するようだが、「とうとう宮城県沖地震がやってきたのだ」と確信して、妙に悟ったような気分になったのは不思議な心理だった。

揺れが一段落してからの数分間は、患者さんにすぐに帰宅するように勧め、怪我した人がいないか、出火していないか、水道管が破裂していないかと建物内を見回っていた。

院長室は床一面に本が散らばり、給食室の大型冷蔵庫は横を向いていたのが見えた。

その頃なると、町役場防災対策庁舎からは大津波警報を発令されていたが、ざわめきと動転している最中で、詳しい内容は聞き取れなかった。

従業員たちは散乱したものを片づけたり、カルテを2階に運んだりし始めていた。

私は何から手を付けたら良いのか分からず、あちこちをうろうろして、この分ではレセプトコンピュータ、X線装置や大型医療機器は海水に浸かってしまいもう使い物にならないだろうと、小市民的な無駄な心配をしていたのを憶えている。

周りの住宅からは隣組の町民が続々出てきて、一斉に避難の準備を始めていた。

取り敢えず、隣地の院長宅にいるはずの連れ合いの様子を見に行った。幸い、閉じ込められたり、家具に挟まれたりせずに無事だった。

再び、院内に戻り右往左往していたが、その間の記憶に一部空白の部分がある。

防災スピーカーは「直ちに避難せよ」と絶え間なく放送しており、間もなく津波が必ず来ると覚悟して、従業員にもはや退避すると指示した。

ところがみんなは今までの避難訓練通り、医院の屋上に上って準備をしていた。

その時に持ち出したトランジスタ-ラジオで「6m以上の大津波」と偶然にも聞こえたので、屋上では駄目だと咄嗟に判断した。

直ちに呼び戻して、総勢10人で400mほど内陸にある上の山公園(海抜16m)に向かった。地震発生からすでに30分くらい経っていたと思う。

後日、医院の立地場所(防潮堤から200m、海抜80cm)での津波の高さは、20m位にはなっていたらしいと教えられた。

もしもそのまま屋上に留まっていたら、間違いなく悲劇的な結果になっていただろう。

切羽詰まった大混乱の中で、方向転換をよく決断したと、のちのち多くの方から言われたが、これは自分の思慮、力量から発出したのではないと断言できる。

まさにお天道様(神様仏様あるいはSomething  Great)に導いて頂いた運命だったのではないかと、信じざるを得ない。

途中で横断した国道45号線は車列が大渋滞しており、多分この人たちの中からも多くの犠牲者が出たのではないかと推測される。

やっと高台に到着した時には、防災対策庁舎に留まっていた女性職員が「10m以上の巨大津波が来るので、一刻も早く避難を」と叫んでいた。

放送を続けていた担当者の故・遠藤未希さんの声が今でも耳の奥に残っている。

そのまま海側を見ていたら防波堤の水位がみるみる下がり、ものの5、6分後には波頭を立てて、黒い壁のような巨大津波が押し寄せ来るのを目の前で見ていた。

この第一波の襲来は3時30分を過ぎた時刻と記録されているので、われわれもあと10分退避が遅れていたら、海の中に引きずり込まれていたのは確実だったろう。 

津波が陸地に到達すると、家並みがどんどん壊されて、家屋からは茶色い土煙が舞い上がり、傾きながら次々と押し流されていた。

この巨大津波の破壊力は、時速30~40Kmで走行する10tトラックが家屋にぶつかった時と同じ衝撃と推定されているそうだ。

波しぶきとその音とともに、あたり一面に充満した磯独特の臭いの臨場感は、後々テレビで見た映像では感知できないものであった。

電信柱がゆっくり倒れてゆく場面はビデオのスローモーション画像そのものだった。

その後、この高台でさえも50cmの浸水が始まり、さらに山奥へと逃げ込んだ。

散り散りになって逃げて従業員たちとはぐれてしまい、今までお参りしたことがなかった上の山八幡神社にたどり着いた時は連れ合いと若い女性の3人だけになっていた。

そこから見えた景色は、神社に上がる鳥居の階段まで海水が押し寄せて、民家が密集していた辺りは、一面に真っ黒い湖のようになって満たされていた。

第二,三波の押し波と引き波によって、あらゆる浮遊物が行ったり来たりして漂っていた。

つい1時間前まで平穏な生活をしていたとはにわかに信じられず、まるで映画の特殊撮影を見ているような錯覚だった。

どこに行くべきか、どうすれば良いのか全く見当がつかず、しばらく参拝所の縁側に座って思案していたら、こともあろうに4時半頃から雪が降り出した。

辺りは林に囲まれた地形で、次第に薄暗くなり始めたので途方に暮れてしまった。

しかし幸いなことに、避難所に行くつもりの知人がたまたま通りがかり、同道した。

これは八幡神社の神様のありがたい思し召しだったのかもしれない。

サンダル履きで雪が積もっている雑木林の藪をかき分けて、道なき道を滑りながら20分くらい歩いて、やっと避難所に指定された志津川小学校の体育館にたどり着き、そこで従業員全員と再び合流し、無事を喜んだ。

かねてから想定されていた宮城県沖地震と津波に備えて、2~3週間分の水や非常食(インスタントラーメン、缶詰、レトルト食品など)、救命胴衣、ガソリン発電機、ガソリン40リットルまでを備蓄していたにもかかわらず、国内で過去最大のマグニチュード9.0の大地震とその後の巨大津波には、すべての心構え、用意が全く役に立たなかった。

それどころかなにひとつ持ち出せず、白衣の上にジャンパーを引っ掛けて逃げてきた。

その夜はひっきりなしに続く余震の中の寒い暗闇の避難所で、サンダルを枕にしてタオルケット1枚をかけて、着の身着のまま冷たい床にごろ寝をした。

当たり前の衣食住や必需の諸々のインフラが唐突に失われて、眠られるどころでなく、「何もかも無くなってしまったか」、「明日からどうなるのだろう」、「みんな心配しているだろうな」などの不安や混迷が頭の中を去来していた。

真夜中に数人の顔見知りから体調が悪いと相談されたが、こんな時は医者といえども打つ手がなく、「徒手空拳」の無力さを実感した。

避難所の志津川小学校体育館には42時間留まっていた。

情報が入らない、連絡が取れない、食べ物や水がない、何をするべきか分からない、行く当てがない、プライバシーの100%欠如などには無力感、不安危惧感、喪失感、焦燥感、無念さが募るばかりだった。

自分ではどうにも出来ない絶望感、虚無感の漂う時空間の経過は、まるで檻のない座敷牢に居るようだった。

医師になってから、これほどの屈辱感と屈服感を味わったことはない。

この場所から脱出する方法や手段の見当がつかず、次第に拘禁症状を感じていた。

幸いにも被災しなかった従業員の手助けによって13日午後3時過ぎに、やっと仙台にたどり着いた時に初めて安堵した心境は、地獄の淵を見た者のみにしか分かるまい。

一瞬にして生活、生業の原点と社会的、経済的基盤のすべてを失ったけれど、連れ合いと一緒に命が助かっただけでも良かったと、心底から諦観することができたことは、新しい後半生の始まりでもあった。


2021/03/11
東日本大震災から10年が経ち

東日本大震災から10年。被災された方々から全てを奪い、生涯、忘れられない大震災。二度と返らぬ震災前の生活、人生。

生き残った方々、震災について言葉にする事、記憶を思い返す事、辛く悲しい過去と対峙する事、 今を生きてゆく事、全てが大変な勇気であります。 心からその存在に敬意を表します。

あの日、私の両親、義両親、スタッフ、そして多くの患者さまも大津波に遭い、被災しそれまでの生活の全てを失いました。 つらく悲しい体験を言葉にする事は大変な勇気が要ります。記憶を思い返したくない方もいらっしゃるかと思います。 大津波を経験して生き残った者しか伝える事が出来ない思いもあるかと思います。 「あの日 どう動いて どう思ったか」「あれから10年経って」10年目の名誉院長の言葉ご一読頂けましたなら幸いです。

震災に遭われた皆様、この10年間の困難、悲しみ、心より御見舞申し上げます。そして、これまでの歩みに心より敬意を申し上げます。

震災では大変多くの方がお亡くなりになられました。 御冥福を心よりお祈り申し上げます。 どうか安らかにおやすみ下さい。

2021.3.11 医療法人社団葵会 一番町南診療所 本田 英彦